インドネシア 歴史 独立

インドネシア 歴史 独立

インドネシアの歴史について、まずは概要だけご紹介しますね。 同国には、大まかに分けても70もの民族があるといわれていて、長い間、統一国家というものがありませんでした。 インドネシアの歴史(独立運動〜独立まで) 独立運動 オランダによる過酷な植民地支配下で、 20世紀 初頭には東インド諸島の住民による民族意識がめばえた。 ( ログアウト /  インドネシア独立戦争 1945年8月17日、スカルノはインドネシアの独立を全世界に宣言した。 結果、オーストラリア軍、オランダ軍、イギリス軍が再植民地化のために攻撃を開始した。 インドネシアの歴史を調べる時に必ず出てくるオランダ。オランダはインドネシアを植民地支配していた国の1つです。はじめに、インドネシアとオランダの関係、さらにインドネシアと日本の関係について紹介します。 オランダやヨーロッパ諸国がアジアに進出してきた15~16世紀は大航海時代。インドネシアのみならず、インドや東南アジアの気候は香辛料の栽培に適しており、ヨーロッパ諸国は西欧の食生活で不可欠だった香 … Piagam Jakarta 22 Juni 1945:sebuah konsensus nasional tentang Dasar Negara Republik Indonesia(1945-1959). ‚éƒCƒXƒ‰ƒ€‹³“k‚É‚Æ‚Á‚ẮA, ‚»‚Ì‘¼‚É‚à‰Ì‚â‰f‰æ‚âƒhƒ‰ƒ}‚ð—˜—p‚µ‚Ä“ú–{•¶‰»‚ð—‰ð‚³‚¹‚悤‚Æ‚µ‚½B, ƒIƒ‰ƒ“ƒ_Žž‘ã‚́Aã‹‰Š¯—»‚ɃCƒ“ƒhƒlƒVƒAl‚ªÌ—p‚³‚ê‚邱‚Æ‚Í‚È‚©‚Á‚½B, ‚»‚̐¼‘º‚Ì”­Œ¾‚ªŽ–ŽÀ‚Å‚ ‚ê‚΁A“{‚é‘O‚É‚ ‚«‚ê‚é˜b‚¾B. 本日8月17日(土)はインドネシアの74回目の独立記念日であり、公的機関や学校では記念式典が行われ、住宅街ではパン食い競争ならぬクルプック食い競争(Lomba Makan Kerupuk)で盛り上がり、スタバではドリンクが半額になります。 宣言 変更 ). Mata Elang Media. 東南アジアに位置するインドネシアには、どんなイメージがありますか? 人口がとても多い国であり、日本とは文化も歴史も違うところが多いですね。 今回は、インドネシアという国の理解を深めるためにも、基本的なことや文化や歴史について学んでいきましょう! (日本語訳) そして1945年8月17日にスカルノ邸前で独立宣言書が読み上げられることになるのですが、10万ルピア紙幣の図柄にもなった独立宣言書の日付の年が、皇紀2605年を意味する「05」になっているのです。, インドネシアのシステムインテグレーション業界【2020年代はメーキングインドネシア4.0の追い風あり】, 日系企業のインドネシアでの事業展開【ガラパゴス市場に特化するか外の世界で勝負するかという選択】, これからのインドネシアでの生存戦略【チャンスはあるが勝てる分野を見つけるのが難しくなった】, インドネシアでのビジネスに必要なブランド力と技術力【オンラインとオフラインが繋がった市場】】, インドネシアで受注請負形式の労働集約型も悪くない【サービスの絶対的価値と相対的価値】, 熱帯雨林の地表近くの環境を好むアグラオネマ【ジャカルタのアパート住まいなら観葉植物がおすすめ】, 女性が働きやすい多様な就労環境の重要性【インドネシアに埋もれた「駐妻さん」という高スキル人材】, 葉の切れ目や穴から幸運の光を通すと言われるモンステラ【コロナ禍で観葉植物の価格が高騰】, オムニバス法によって外国人のアパート所有が認められるのか?【雇用創出法と税制改正により海外直接投資を誘致】, インドネシアのSDGs(持続可能な開発目標)達成に貢献するオンラインビジネス【日本はアジアDX構想として戦略的に資金や技術を投入】, 1945年8月12日:スカルノ・ハッタは大日本帝国陸軍の南方軍総司令官である寺内寿一からいつでも独立してよしの言質を得る。, 1945年8月15日:日本の終戦記念日=天皇陛下による玉音(ぎょくおん)放送で国民にポツダム宣言受諾を伝えた日, 1945年8月16日:ジャカルタ在勤武官の前田精海軍少将はスカルノとハッタを自らの公邸に受け入れ、インドネシア独立宣言の打ち合わせ。独立準備調査会によって独立宣言草案が起草された。, 1945年8月17日:中央ジャカルタ東ペガンサアン通56番地(スカルノ邸)でインドネシア独立宣言書を読み上げる。.

変更 ), Twitter アカウントを使ってコメントしています。 1600年代から300年以上もオランダの植民地であったインドネシア。その後日本の軍政支配下に置かれたことはご存知のとおりですが、日本軍はインドネシアの独立に大いに貢献したといいます。無料メルマガ『Japan on the… 『受験世界史の地図』は、「高校世界史の知識+α」のレベルで世界史を解説するサイトです。, 東西の帝国の間では、海上貿易が行われた。ただ、マレー半島を陸路で弥ルートであり、マラッカ海峡は使われなかった。, スマトラ島に貿易帝国シュリーヴィジャヤ(室利仏逝)が生まれた。670年ごろにマレー半島で誕生したシュリーヴィジャヤは、682年にスマトラのパレンバンを陥落させ、首都とした。, 8世紀なかごろ、中部ジャワのシャイレーンドラ朝が強くなり、シュリーヴィジャヤ王家となった。, シャイレーンドラ朝シュリーヴィジャヤは、カンボジアの宗主権をもち、唐の安南都護府を陥落させた。, また、ジャワ島ではクディリ朝が誕生。脱サンスクリット語などジャワ固有の文化の発展が見られた。また、米や塩を輸出し、繁栄をとげた。, 人口は稠密で、東洋諸国のなかで第一番である。…民は盗みを働かず、道に落とし物を拾わず、諺に「太平のジャワ」というのはまさにこのことである。, モンゴルがもたらしたユーラシア大陸の政治的統一は、東西交易を活発化させた。このある種のグローバル化を、第一次大交易時代という。, 東南アジアにヨーロッパ人商人が参入した。ポルトガル人はインドから、スペイン人はアメリカから到来し、ここで初めて地球を周回する貿易網が作られた。, マラッカ王国が、鄭和の大艦隊の基地になり発展。東南アジアではじめて本格的にイスラーム化し、ムスリム商人と友好関係を結んだ。, 結果、マラッカは貿易の中心地となり、大乗仏教のマジャパヒトと対立し、覇権を争った。, 以降、マレー語とイスラーム教は東南アジアに広まっていった。現在のインドネシア語はマレー語の方言である。, 貿易支配を目論むポルトガルがマラッカ王国を滅ぼした。しかし、商人はポルトガルによる貿易支配を嫌い、東南アジアに貿易拠点は分散した。, スンダ海峡ルートに位置するアチェやバンテンが栄えた。高まった食料需要のため、中部・東部ジャワ島のマタラム王国が栄えた。, 1602年、オランダは東インド貿易会社を設立。1611年、オランダは西ジャワのジャカルタに商館を建設。バタヴィアと改名した。, 1755年にジャワ西部のバンテン王国、1813年にジャワ東部の新マタラム王国を滅ぼして、植民地にくみこんだ。, 1799年、財政破綻が明らかになったオランダ東インド会社(VOC)は、解体された。, また、1912年に、現在のインドネシアの領域がオランダによって植民地化された。最後の現地政権アチェ王国を滅ぼしたのである。, オランダが現地人のエリート層を育成した結果、民族意識に目覚める人々が生まれた。こうして、独立運動が生まれる。, 1942年、オランダ軍は日本軍に対し降伏した。ただ、日本軍は解放軍ではなく、ロームシャとして多くのインドネシア人を強制労働により死に追いやった。, 結果、オーストラリア軍、オランダ軍、イギリス軍が再植民地化のために攻撃を開始した。インドネシア独立戦争である。, インドネシア共和国は、非共産主義を明確に打ち出し、アメリカの支持をえた。結果、国連が独立を支持。, 管理人の「しまうま」です。 世界史のブログ書いてる人です。 ・Pinterest ・Facebook に公式アカウントが存在します。.

Copyright © 2019-2020 受験世界史の地図 β版 All Rights Reserved. オランダと日本が大きく関わるインドネシアの植民地支配から独立までの歴史。特にインドネシアの教科書に日本がどのように記載されているかは、日本人は知っておきたい点ではないでしょうか。 オランダ,東インド会社を解散,インドネシアを直接統治下におく。 1942年: 日本軍による占領(~1945年)。 1945年: 8月17日,スカルノ及びハッタがインドネシアの独立を宣言。スカルノが初代大統領に選出。オランダとの間で独立戦争(~1949年)。 1949年

インドネシアの多様性は,長い歴史の中で様々な民族や国からの影響を受けて培われてきました。紀元前に,現在のインドネシアを形成する島々にヒンズー教文化や仏教文化が伝来。 インドネシアの個性と多様性を形成した様々な宗教と文化. 本日8月17日(土)はインドネシアの74回目の独立記念日であり、公的機関や学校では記念式典が行われ、住宅街ではパン食い競争ならぬクルプック食い競争(Lomba Makan Kerupuk)で盛り上がり、スタバではドリンクが半額になります。, ところでインドネシアで仕事をしている人にとっては、一般常識の基本のキかもしれませんが, この質問に対して、意外にもオランダから独立したという人がいると思えば、いや大日本帝国の軍政からの解放だという人もいれば、特定の国は重要ではなく帝国主義に基づく植民地支配からの独立だ、という人もいてなんかはっきりしないんですよね。, ちなみに自分は完全に日本からの独立だと思っていました。だって年表を見ると1945年8月17日当時は、インドネシアは日本軍政下にあったので、独立記念日は日本からの独立であることは明らかじゃないですか。, ただですね、毎年8月に入り、街に赤白のインドネシア国旗Sang Merah Putihが目立つようになり、17日の政府やお役所、学校などで開催される記念行事に向けて準備が進められ、テレビでは独立を祝う愛国歌が流れたりするようになると、Merdeka!(独立!)という掛け声だけが勇ましい中で「日本から独立を勝ち取った」という視点がどうも見えないんです。, 日本軍によるインドネシア進駐(他国の領土に進軍してとどまること)時の古い映像は流れますが、そこには「大日本帝国軍政からの独立バンザーイ」みたいな「インドネシア=被害者」と「日本=加害者」という対立構図が全く感じられないし、ましてや反日を煽るようなスローガンなんて聞いたことありません。, 自分としては、別にインドネシアの独立が日本からでもオランダからでも植民地主義からでもなんでもいいのですが、74年前までの3年半の間、自分の先人達がインドネシアに進駐していた事実に対する若干の申し訳なさ、その子孫である自分が今その国で働かせてもらってありがとうという謙虚な気持ちは忘れないようにしています。, ただし過去の話をあることないことほじくり返して、倫理委員会にかけるかのように、日本は反省が足りないとか、国家レベルではなく民間レベルで賠償するべきだとかいう主張には嫌悪感が湧きますし、逆に大日本帝国の南方作戦は侵略戦争ではなくアジアの植民地主義からの解放こそが目的だったという一方的な主張にも辟易しています。, 大日本帝国の侵略戦争によってインドネシアの民衆に及ぼした傷は正当化されるべきものではなく、国家レベルでの戦後賠償が当然必要であり、そのため1958年に日本=インドネシア平和条約が締結されています。, ちなみにその賠償貿易にからむ日本の商社とスカルノ政権との間で行われた商戦を描いたのが、インドネシアに関わる日本人にとってのバイブルとも言える深田祐介著「神鷲(ガルーダ)商人」であり、スカルノ大統領の第三夫人となったデヴィ夫人が利権争いの中で翻弄され、したたかに生き抜いていく物語です。, とニコニコしながらサラッと言われたときは、笑ったほうがいいのか謝ったほうがいいのか対応に困ったことがあります。, インドネシアを含む東南アジアへの日本軍による南方作戦が侵略戦争だったのか、解放戦争だったのかと聞かれれば、石油資源確保のための侵略が、結果的にヨーロッパからの解放に繋がったということになると思います。, 結果としてインドネシアの独立を促したことは日本軍政の正の遺産として評価されるべきだと思いますが、それをもってromusha(ロームシャ)というインドネシア語が出来上がったほどに苛烈だった強制労働や、日本語や皇紀という日本文化の強要などの負の遺産を帳消しにできると、日本人の口から言うことは控えるべきだと考えます。, 侵略された国側の感情は侵略した側には想像できないものがあることも理解しますし、カラオケ屋のお姉さんから日本の支配が苛烈だったと言われれば反論するつもりは毛頭ございません。, ただ74年前のちょうどいまの時期、敗戦前後の大日本帝国陸軍と、スカルノとハッタという独立運動家を中心メンバーとした独立準備調査会の間で、インドネシアの独立を進める方向で一致していたことは確かな史実です。, 日本書紀の記述にある日本の初代天皇である神武天皇が即位した紀元前660年を元年として紀年した皇紀は、当時の日本軍政下のインドネシアにおいて、強要されていたものであるとはいえ、これがインドネシアの独立宣言書の日付に採用されていることは、当時の帝国陸軍と独立準備委員会の関係は、単純な支配者と被支配者という対立構図の中にあったわけではないことが想像できます。, 先日西ブカシの映画館で、劇場公開されたばかりの「Bumi Manusia(人間の大地)」を観てきました。, 「人間の大地」は原作者のプラムディア(Pramoedya)の最高傑作「ブル島4部作」の第一部を映画化したものであり、181分の大作がたったのRp.25,000、インドネシアでは映画観るのが安すぎて逆に申し訳ない気がします。, プラムディアはインドネシア共産党(PKI=Partai Komunis Indonesia)との関係を疑われ政治犯として投獄され、その作品はスハルト政権下で発禁処分となりましたが、1998年のスハルト政権崩壊後に釈放され、その業績は世界で評価され「アジアのノーベル文学賞最有力候補」とまで言われました。, 植民地支配下における社会や法の中での差別と偏見という不条理と戦い、支配者側から本来あるべき人間としての権利と民族の誇りを取り戻そうと格闘するジャワ人の主人公のアイデンティティの確立、民族主義の覚醒という日本人にはなかなか想像できない大きなテーマです。, インドネシアにとっての独立とは、時系列的には日本からの独立であっても、オランダによる350年間の植民地支配、3年半に渡る日本軍政による支配の中で形成された民族主義の勝利、尾崎豊的にいうと「支配からの独立」と言えます。, 400年近くに渡る支配からインドネシア人自ら勝ち得た独立であって、1945年8月17日がたまたま日本軍政化にあっただけ。日本からの独立であるにもかかわらず、毎年8月17日に日本人が特に気まずい思いをせずに済むのは、こういう歴史的経緯があるからだと思います。. 1600年代から300年以上もオランダの植民地であったインドネシア。その後日本の軍政支配下に置かれたことはご存知のとおりですが、日本軍はインドネシアの独立に大いに貢献したといいます。無料メルマガ『Japan on the… ( ログアウト / 

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インドネシア独立戦争(インドネシアどくりつせんそう)は、日本が第二次世界大戦で連合国へ降伏した後の旧オランダ領東インドで、独立を宣言したインドネシア共和国と、これを認めず再植民地化に乗り出したオランダとの間で発生した戦争(独立戦争)。1945年から1949年までの4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になった。, より狭義には、1947年7月21日と1948年12月19日の2度にわたって、オランダ軍がインドネシア共和国に軍事侵攻した結果生じた大規模な軍事衝突を指し、オランダ側ではこの自国の軍事行動を「警察行動」(Politionele acties)と呼称している。しかし一般的には、インドネシア共和国とオランダ軍との軍事衝突だけでなく、東インドに進駐したイギリス軍とインドネシアの武装組織との武力衝突、インドネシア共和国内での反乱事件や政治闘争、そして軍事衝突とほぼ並行して進められたオランダや国際連合との外交交渉など、インドネシアの独立へ向けての一連の政治過程を総称して「インドネシア独立戦争」という。, また、植民地時代や日本軍政期には旧東インド領の各地で、伝統的な領主層や貴族層が為政者によって特権を保護されてきたが、独立宣言後にインドネシア人の急進的な青年層や武装勢力によって、これらの者の地位や特権を剥奪する社会革命の動きがみられた。こうした動きも含めて、一連の事象を「インドネシア(八月)革命」ともいう。, 結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。現在も同日を記念して祝祭日としており、ジャカルタを中心に祝賀される。, オランダは大航海時代以来、およそ300年にわたって「東インド」と名づけた島々を植民地支配してきた(オランダ海上帝国)。しかし1941年夏のABCD包囲網以来日本とオランダは敵対し、同年12月8日に大東亜戦争(太平洋戦争)が始まるとオランダ政府は12月10日に日本政府に対して宣戦布告(オランダ領東インド政庁が独断で宣戦布告し、当時ロンドンに亡命していた本国政府が追認したものとされる)、これに応じて日本軍(第16軍、ジャワ島上陸第1陣は約5万5000人)は1942年2月末から3月にかけて、スマトラ島とジャワ島に進攻した。オランダ領東インド軍(蘭印軍、約4万人)は、3月10日に日本軍に全面降伏した[注釈 1]。, その後日本軍は、オランダ植民地政府により軟禁されていたスカルノやハッタなどの民族主義運動の活動家を解放し、その後スカルノやハッタと協力体制を取り、さらにインドネシア人を現地官吏に登用したほか、「インドネシア」という呼称を公の場で使用することを解禁し、英語やオランダ語ではなく「インドネシア語」を公用語にした[6]。, さらに1943年10月には、日本軍の協力を得てインドネシア人指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本軍政下ではあったものの、インドネシア人はこれまでのオランダ統治下では決して得ることのできなかった権限を得ることとなったが、この頃までは石油資源の安定確保を目的として東インドを直轄の軍政地域とし、スカルノやハッタらインドネシア民族主義指導者の独立の要請は認めなかった。, しかし、日本の戦局が悪化してくると、1944年9月3日には将来の独立を認容する「小磯声明」を発表、さらに1945年3月に東インドに独立準備調査会を発足させ、スカルノやハッタらに独立後の憲法を審議させた。同年8月7日スカルノを主席とする独立準備委員会が設立され、その第1回会議が18日に開催されるはずであったが、8月15日に日本が降伏したことによって[注釈 2]、この軍政当局の主導による独立準備は中止されることとなった。, 1945年8月15日、ジャカルタの街に日本が連合軍に降伏したという噂が拡がっていたため、スカルノとハッタは山本茂一郎軍政監と接触して、確実な情報を得ようと務めたが徒労に終わった[7]。そこで二人は同日14時半頃前田精海軍少将を訪ねたところ、前田は公式な情報がないという理由で回答を留保した[8]。8月16日早朝、スカルノとハッタは、無傷の日本軍と敵対してでも即時に独立宣言すべきと主張する青年グループに拉致された(レンガス・デンクロック事件)[9]。スカルノ、ハッタおよびスバルジョは青年グループを説得し、8月17日の正午までに準備を整え独立を宣言すべく解放され、ジャカルタへ向かった[10]。8月16日23時頃、スカルノ、ハッタらは前田精海軍少将邸に集まり、既に起草されていた憲法前文の独立宣言に関連した箇所に基いて独立宣言を起草し採択した[11]。8月17日10時頃、スカルノらインドネシアの民族主義者たち自身が、連合国の了解を得ることなく、スカルノの私邸に集まった約1000名の立会いを得て、インドネシア独立宣言を発表し[注釈 3]、スカルノを首班とするインドネシア共和国が成立した。, 独立宣言後の8月22日には人民治安団(Badan Keamanan Rakyat)が政府布告によって結成され、政府は日本軍政下で結成された旧ペタ(郷土防衛義勇軍)系の将兵、兵補らに参加を呼びかけた。この人民治安団が治安維持、急進化する青年層の取り込みといった目的をもっていたのに対して、10月5日に結成された人民治安軍(Tentara Keamanan Rakyat)は、10月になって本格的に進駐してきたイギリス軍および旧宗主国のオランダ軍に対抗するという目的があった[注釈 4]。人民治安軍は旧蘭印軍将兵に対してもこれへの参加を呼びかけ、純然たる軍組織を目指した。共和国側にはこの正規軍以外にも複数の非正規の武装組織が誕生し、その活動には政府の統制が及ばなかった[12]。, 一方、大戦に敗れた日本軍は、連合軍の命令により、東南アジアの各占領地域を現状維持のまま、上陸する連合軍部隊に引き渡すことになり、インドネシア人の独立派への武器引渡しも厳禁とされていた。この命令を守るために独立派との間でスマラン事件などの衝突が生じ、日本側にも多数の死傷者が出た[注釈 5]。他方で、日本軍部隊が上官の命によって兵器の集積庫を開放し、横流しした例もある[13]。その結果、日本軍からは3万丁以上の三八式歩兵銃、数百の野砲・トラック、食料、弾薬、軍刀など多くの資材が独立派の手に渡った[注釈 6]。日本に引き揚げずにインドネシア独立派に身を投じた元日本兵は数千人に上った[2]。各国の独立運動支援のために武器を持ったまま義勇軍に加わる日本兵も少なくなく、インドネシアの場合、その数は通常3千人といわれ、千人がオランダ軍との戦いで独立義勇軍の兵士として戦死、千人がインドネシア独立後に日本へ帰国、千人がインドネシアに帰化したといわれる[注釈 7]。約2000人の元日本軍兵は祖国に帰らず、そのまま除隊(この時点で日本軍籍は消滅)、残留してインドネシア独立軍に参加し、降伏時所持していた兵器物資を横流しした者、軍政資材をそのまま利用し独立運動の広報・宣伝に当たった者もいた[14]。ある者はインドネシア人と結婚して家庭を築き、またある者はイスラームに改宗するなどして現地社会に溶け込み、インドネシア独立戦争の終了後も日本に帰還する者は少なかった。なお、陸軍第16軍の作戦参謀を務めた宮元静雄によると、帰隊者・死亡者をのぞく現地逃亡残留兵は総計277名で、そのうち166名はジャワのバンドン地区の将兵であった[15]。, 大戦中ロンドンに亡命していたウィルヘルミナ女王のオランダ政府は、すでに1942年12月7日には戦後における東インドの自治について言及していたが、その独立について譲歩する考えはなかった。オランダ政府のハーグ復帰後、東インドの再植民地化を決定し、カナダで訓練されていたオランダ領東インド軍(蘭印軍)部隊を派遣する準備をすすめていた[16]。, 連合国側では、オランダ領東インドの管轄をアメリカ軍南西太平洋司令部からイギリス軍東南アジア司令部(総司令官マウントバッテン)に移し、その指揮下のイギリス軍部隊(その大半は英印軍)が東インドに進駐することになった[17]。このイギリス軍部隊の役割は、東インドにおける現状維持と、日本兵の武装解除および日本人の本国移送であり、オランダとインドネシアの独立問題には不介入の立場を取っていたが、期せずしてインドネシア人の武装勢力との衝突に巻き込まれていくことになるのである。, 9月29日イギリス軍第一陣がジャカルタに上陸し、10月1日付でクリスティソン・イギリス陸軍中将指揮下の蘭印連合軍(AFNEI)司令部がジャカルタに開設された。10月末までには、AFNEI傘下の英印軍第23師団の一個旅団がジャカルタ、バンドン、スラバヤに、一個大隊がスマランに配置された。, 10月20日にはオランダ領東インド政府副総督ファン・モークが亡命先のオーストラリアからジャカルタに帰還し、10月23日にはインドネシア共和国大統領スカルノ、副大統領ハッタと会見している。以後、1946年11月末にイギリス軍がインドネシアから完全撤退するまでの期間、インドネシアの独立問題は、当事者であるインドネシアとオランダ、その両者の仲介役であるイギリスという、三者間の交渉によって「外交」交渉が進められていくことになる。, なお、インドネシアに進駐したAFNEIの指揮下には、オランダ領東インド軍(蘭印軍)陸軍司令官ファン・オイエン少将率いる蘭印陸軍七個中隊があった。この部隊がインドネシア人殺害、誘拐、放火など多くの事件を起こした。これらの破壊工作が、インドネシアと連合国との交渉環境をいちじるしく悪化させた[18]。, 10月25日にスラバヤに上陸したイギリス軍第49旅団は、民衆に武器の提出を求めるチラシを全市で配布し、これがインドネシア側を刺激した。このチラシをイギリスからの宣戦布告であると受け止めたインドネシア人は、同28日、29日、30日にわたってスラバヤ市内に展開するイギリス軍を攻撃し、これに打撃をあたえた[19]。イギリスとの交渉環境の悪化を危惧したスカルノやハッタがスラバヤに飛来して停戦を成立させたが、10月30日夜、その停戦ラインの侵犯をめぐって銃撃戦が起こり、英印軍の旅団長マラビー准将が射殺された。, イギリス側(英印軍)は、この他にも共和国側の武装組織との交戦によって多数の死傷者を出しており(1946年11月28日の完全撤退までに死傷者1377人、うち戦死者407人、行方不明者162人)、また、インドの世論もインドネシアの民族独立運動の弾圧に英印軍が利用されることに反対し、インド総督も英印軍の早期撤退をイギリス政府に要請していた[20]。, 10月半ばから下旬にかけては、英印軍第26師団がスマトラのメダン、パレンバンなどに進駐した。このように、ジャワとスマトラは英軍指揮下にあったが、チモール、カリマンタン、スラウェシ、アンボンなどの「外島」はオーストラリア軍が部分的に占領した[21]。, 1946年1月4日、インドネシア共和国政府は首都を治安の悪化したジャカルタからジョグジャカルタに移し、大統領スカルノ、副大統領ハッタらはジョグジャカルタに退避し、イギリス・オランダとの交渉は、ジャカルタに残った共和国首相シャフリル(外相兼任)、国防相アミル・シャリフディン(情報相兼任)が担っていくことになった。, 一方、オランダ軍部隊が東インドに派遣されると続々と増加して12万人に達し、インドネシア側との本格的衝突が懸念された。1946年11月末に予定されたイギリス軍部隊のインドネシアからの完全撤退を前に、停戦協定の締結が急がれることになった。, 1946年11月12日、オランダはジャワ島、スマトラ島、マドゥラ島をインドネシア共和国の勢力下にあると認め、双方は連邦国家樹立に向けて努力するという停戦協定(リンガジャティ協定)が成立した。そして当初の予定どおり、イギリス軍は11月中にインドネシアからの撤退を完了した。, しかしオランダ軍は同協定の批准も済んでいない1947年1月24日、東部ジャワのクリアンとシドアルジョを攻撃、これを占領するとともにさらに内陸のモジョクルトへも兵を進めた。このオランダ軍の進出に譲歩するか徹底抗戦するかをめぐって、インドネシア国内で混乱が続くなかで(その結果、6月27日、シャフリル内閣崩壊)、6月28日、オランダ軍は全域での進軍を命じ、スラバヤ、ジョグジャカルタ周辺への空爆も開始された。, 1947年7月17日に共和国側へ最後通牒を突きつけたオランダ軍は、7月21日、共和国領内への全面的攻勢を開始した(オランダ側ではこれを「(第1次)警察行動」という)。オランダ軍はジャワ西部のジャカルタ、チルボン、南部のチアミス、タシクマラヤ、北部のスマラン、マグラン、スマトラのメダン、パレンバンなど、主だった拠点を占領し[22]、インドネシア共和国臨時首都であるジョグジャカルタにも迫った。12万を超すオランダ軍は装備の面でも、練度においてもインドネシア側の武装組織を凌駕しており、独立軍は都市部を放棄せざるをえなかったが、一方のオランダ側も、農村部でのゲリラ戦に苦しめられた。これに対してオランダ軍は徹底したゲリラ掃討作戦を展開し、1947年12月9日には西ジャワにある小村ラワゲデ(RAWAGEDE)に独立派指導者ルカス・クスタリオ(Lukas Kustario)が潜伏しているとして捜索を行った際、村に住む男性150人以上を虐殺する事件が起きている。, ここで成立したばかりの国際連合が介入、8月1日に国際連合安全保障理事会で、即時停戦と仲裁による和平解決をもとめる安保理決議27が採択された。この決議にもとづいて8月4日に停戦が成立したが、その後もオランダ軍の攻撃は止まず、占領地域に次々と傀儡国家・自治領域を設立していった。このためインドネシア共和国国連代表シャフリル(前首相)の求めによって、国連はインドネシアが指名したオーストラリア、オランダが指名したベルギー、そしてオーストラリア・ベルギー両国が指名したアメリカ合衆国の3カ国による仲裁委員会の設置を決定した。10月にはこの仲裁委員会の代表がジャカルタに到着し、新たな停戦協定の締結へ向けて努力していくことになった[23]。, 1948年1月17日、ジャカルタ沖に停泊する米国軍艦レンヴィル (Renville) 艦上(ハスケル級攻撃輸送艦APA-227)で調印された停戦協定(レンヴィル協定)は、インドネシア共和国領をジャワ島の中部と西端部、マドゥラ島のみとし、共和国側も、さらに狭い領域へと押し込まれる現状を追認するしかなかった。, 1948年1月23日、同協定を批准する見込みのなかったアミル・シャリフディン内閣は総辞職し、その後を引き継ぐ内閣を担う意思と能力のある政治家は既存の政党にはいなかった[24]。大統領スカルノは、1月29日、副大統領ハッタに超党派の内閣を組織させ(首相と国防相を兼任)、レンヴィル後の国内混乱を収拾し、オランダとの外交交渉を継続していくことになった。, 一方で、レンヴィル協定に反対するインドネシア共産党(PKI)をはじめとする徹底抗戦派および左派勢力が糾合され、スカルノ、ハッタらの外交路線と対立した。この政府と左派勢力の対立のなかで、1948年9月18日、PKIの影響下にある部隊がジャワ島東部のマディウンで政府機関を襲撃し、革命政府樹立を宣言した(マディウン事件)。1ヶ月ほどでこの反乱は鎮圧されたが、共和国内部での混乱に乗じて、オランダは12月11日和平会談決裂を宣言、12月19日早朝に共和国領内への全面攻勢が開始された(オランダではこれを「第二次警察行動」という)。, オランダ空軍の爆撃機によってジョクジャカルタのマグオ空港が空爆され、オランダ海兵隊と蘭印軍が地上から侵攻し、12月23日までには共和国臨時首都ジョグジャカルタを陥落させた。当時、ジョクジャカルタの共和国側には3個中隊の兵力しかなく、オランダはスカルノ大統領、首相兼副大統領ハッタ、そして閣僚の大半を逮捕した[25]。, 共和国側はスマトラで臨時政府樹立(臨時首相はシャフルディン・プラウィラネガラ蔵相)を宣言、逮捕されたスカルノもオランダとの交渉継続を破棄し、徹底抗戦を全国民に訴えた。このように共和国政府の存続を国際的にアピールするとともに、インドネシア側の武装勢力も組織的な抵抗を開始した。スディルマン国軍司令官の号令の下、農村部や地方都市でゲリラ戦や治安の撹乱をすすめ、1949年3月1日にはオランダ占領下のジョグジャカルタ奪還作戦を敢行し、一時オランダ軍を窮地に追い込んだ[注釈 8]。, オランダの全面攻勢によってインドネシア共和国は存続の危機に瀕したが、オランダの軍事的勝利は外交的敗北の始まりだった。オランダがインドネシアの各地で設立した傀儡国家では急速にオランダ離れがすすみ、これらの地域が後にインドネシア共和国に合流する素地を作った[26]。また、国際世論は植民地主義に固執するオランダを激しく非難し、国連安保理は12月24日の決議でオランダに共和国指導者の釈放を要求した。とりわけ、マディウン事件で左派勢力を一掃したハッタ政権を高く評価していたアメリカは、オランダへの経済援助の停止を通告し、和平協議復帰への圧力をかけた。, こうした国際世論の圧力のもとにオランダは和平受諾に追い込まれて行く。また、インドネシアにおける過大な軍事費支出は、ドイツの占領で疲弊したオランダ経済にとって耐え難いものとなっていたのである。, オランダに逮捕されていたスカルノらインドネシア指導者は1949年7月6日にジョグジャカルタに帰還し、7月13日にはスマトラの臨時政府を解消して、政府機能を復活させた。, 8月23日にオランダの首都ハーグでハーグ円卓会議(英語版)が開催された。オランダ首相によって主催されたハーグ円卓会議は11月2日に一応終結し、当事者であるインドネシア共和国、同連邦構成国、オランダとのあいだで、以下が決議された。, オランダはインドネシアに対する影響力を残しながらも、12月27日インドネシアの主権を連邦共和国に移譲した。ここにおいて戦争は公式に終結した。また、オランダは交渉の過程で、当初、インドネシア側に61億ギルダー(17億3200万ドルに相当)の債務負担を要求し、最終的には43億ギルダー(11億3000万ドル相当)の債務をインドネシア側が継承することで合意した[27]。, 解放を獲得したインドネシアだが、日本(枢軸国)に勝利したオランダ(連合国)が影響力を残すため、共和国が支配するジャワ島のほかに、オランダの作ったいくつもの傀儡政権が連立する連邦共和国となっていた[28]。だが、諸邦が分立する連邦共和国制度を不満とし、土侯国を中心とする諸邦の権力をジャカルタの中央政権に委譲させ、1950年8月15日、単一のインドネシア共和国の樹立が宣言された。オランダの目論みは完全に失敗し、300年に及ぶ影響力を遂に失った。, 建国後のインドネシアは原油とゴムの輸出によって経済を再建するとともに、政治的には議会制民主主義を忠実に実行したが、政治的混乱を収拾するため、スカルノは1956年に「指導された民主主義」を提唱し、独裁制へ移行して行くとともに、ソビエト連邦へ接近した。1960年には、なおオランダ支配下にあった西イリアンへ進攻し、オランダと国交を断絶し、アメリカ合衆国政府の介入による国連暫定統治を経て、1962年にはインドネシアへの移管が決まった。, オランダは第二次世界大戦後に、アメリカ合衆国政府によるマーシャル・プラン(西欧経済援助)が停止されたことも、打撃が大きかった。1962年には西イリアンも失い、植民地国家から西欧国家への移行を目指した。ベルギーやルクセンブルクとのベネルクス関税同盟は、その後の欧州共同体、現在の欧州連合の先駆けとなった。, 日本軍の敗北から1947年5月の全日本人引き揚げまでのあいだに、日本軍の死者は1078人を数え、この人数は日本軍の蘭印侵攻時の戦死255名、負傷702名を上回るものだった[6]。この死者数は、武器・弾薬譲渡をめぐる独立派からの襲撃によるもの(陸輸総局勤務の婦女子を含む70名余りの無抵抗の日本兵が殺害された)や[6][注釈 9]、連合国側の進駐軍が現地の治安確保のために日本軍部隊に出動を命じて戦闘になったこと、などによるものだった[注釈 10]。一方で、独立派が武器を奪っていくのを、現地日本人が見てみぬふりをする形で、穏便に解決すると同時に、旧日本軍が独立派に事実上武器を譲渡するような例もあった。, また、日本の敗戦後、インドネシア側の武装勢力に身を投じて独立戦争に参加した日本人がいた[注釈 11]。彼らが独立戦争に参加した動機はさまざまである。戦前・戦中、日本が大東亜共栄圏、東亜新秩序を打ち出していたことから、欧米からのインドネシア解放・独立の為にインドネシアの独立戦争に参加し、インドネシア人と「共に生き、共に死す」を誓いあった者や、日本に帰国したら戦犯として裁かれることを恐れたためにインドネシアに残留した者、また日本軍政期に各地で結成された郷土防衛義勇軍[注釈 12]の教官としてインドネシア人青年の訓練にあたった者の中には、その教え子たちに請われて武装組織に参加した者もいる[注釈 13]。, これらの「現地逃亡日本兵」の独立勢力への参加については、連合国側はきびしく禁じており、日本軍の現地指導部でも、在留日本人の引揚げに悪影響を与え、ひいては日本の国体護持や天皇の地位にまで悪影響を与えるとして、対応に苦慮した[注釈 14]。インドネシアの独立達成後、1958年1月20日に日本とインドネシアの平和条約、賠償協定が締結され、1960年代に日本企業のインドネシア進出が本格化する頃、両国間の橋渡しの役割を果たしたのは、これらの元日本兵たちであった[30]。, 独立戦争で命を落とした元日本兵は、ジャカルタのカリバタ英雄墓地をはじめ、各地の英雄墓地に葬られ、戦後生き残った元日本兵も、インドネシア国籍を与えられたインドネシア人として、これらの墓地に埋葬される予定である。, 1958年に訪日したスカルノ大統領は、日本へ感謝の意を表し、独立戦争で特に貢献した市来龍夫と吉住留五郎に対し感謝の言葉を送った。, 1987年の訪日の際、アラムシャ第三副首相は、日本占領時に創設されたPETAでの人材育成に感謝し、連合軍に敗戦後もインドネシアに残留し独立戦争に参加した日本兵らについても語っている[31][6]。, またスハルトは、1988年8月17日の独立記念日に、インドネシア独立に尽力した金子智一・稲嶺一郎の2名の日本人に国家最高の栄誉「ナラリア勲章(独立名誉勲章)」を授与している[32]。それ以前には、1976年に前田精、その後に高杉晋一、清水斉、小笠公詔の4名が既に受章していた。, 「インドネシアと日本軍政」についての研究は[注釈 15]、1950年代から欧米諸国ではじめられ、日本軍政がインドネシア社会に大きな政治的インパクトを与え、現地のナショナリズムを刺激し、脱植民地化を加速させたとの評価が一般的となった[33]。, ジョージ・S・カナヘレは著書『日本軍政とインドネシア独立』の中で、「日本軍政は、インドネシア語の公用化を徹底させたが、このことを通し、インドネシアは国民的自覚の連帯意識を強化せしめることができた」とし、以下のように分析している[34][6]。, 市来龍夫君と吉住留五郎君へ。独立は一民族のものならず全人類のものなり。1958年8月15日東京にて。スカルノ, 日本軍の軍政は良かった。…行政官の教育は徹底したものだった。原田熊吉ジャワ派遣軍司令官の熱烈な応援により、PETAが創設された。PETAは義勇軍と士官学校を合併したような機関で、38,000名の将校を養成した。兵補と警察隊も編成され、猛烈な訓練をしてくれたばかりでなく、インドネシア人が熱望する武器をすぐに供与してくれた。…(日本が連合軍に)無条件降伏した後も、多数の有志将校がインドネシアの独立戦争に参加してくれた。…経験豊かでしかも勇猛果敢な日本軍将兵の参加が、独立戦争を、我々に有利な方向に導いたか計り知れない。数百年来インドネシアに住む、数百万の中国人の大部分はオランダ側に加担して、インドネシア軍に銃を向けた。, 日本軍政は、オランダ時代には知らなかった広い地域の大衆をインドネシアという国家形態に組織した。…日本軍政は、ジャワ、バリ、スマトラに、現地人による常備軍(, このように比較的短期間のうちに戦闘が終わった要因として、(1)オランダ本国がすでに, 8月14日に日本降伏は予告されていない。奥源造編訳(1973)『アフマッド・スバルジョ著 インドネシアの独立と革命』95頁他。, 1945年9月2日から約半年の間に、日本軍はインドネシア側との衝突で627人の死者を出した。そのなかでも1945年10月、中部ジャワ州の, このインドネシアからの日本人引揚げで婦女子854名が全員無事に帰国したことについて、永井は, 独立戦争終結後しばらくして、現地逃亡元日本兵に日本への帰国の機会が与えられたが、帰国せずにそのまま残留した者も多かった。日本政府からは「脱走兵」と見なされたため、軍人, 以下の研究史の整理は、倉沢愛子「シンポジウム『東南アジア史の中の日本占領 -評価と位置づけ- 』」、『アジア経済』37巻7・8号、1996年7・8月号、191-193頁、を参照。, 奥源造編訳(1973)『アフマッド・スバルジョ著 インドネシアの独立と革命』116頁。, 奥源造編訳(1973)『アフマッド・スバルジョ著 インドネシアの独立と革命』229頁他。, 奥源造編訳(1973)『アフマッド・スバルジョ著 インドネシアの独立と革命』128頁。, 奥源造編訳(1973)『アフマッド・スバルジョ著 インドネシアの独立と革命』142頁。, 奥源造編訳(1973)『アフマッド・スバルジョ著 インドネシアの独立と革命』156頁。, 『アジアに生きる大東亜戦争』ASEANセンター編/『アジア独立への道』田中正明など), ジョージ・S・カナヘレ『日本軍政とインドネシア独立』(後藤乾一訳)鳳出版 、1977年1月, http://cip.cornell.edu/DPubS?service=UI&version=1.0&verb=Display&handle=seap.indo/1107016901, http://www.1945-1950ubachsberg.nl/site/erevelden.htm, 藤井厳喜「教科書が教えない歴史 ミャンマー、インドネシア独立に尽力した日本人に勲章, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=インドネシア独立戦争&oldid=80029644, 首藤もと子 『インドネシア - ナショナリズム変容の政治過程』、勁草書房、1993年.

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